福井と羽二重 | 福井の最先端製品 | 繊維の基礎知識
 


写真: 広幅織物■福井と羽二重

明治4年、「五箇条の御誓文」の草案者である旧藩士の由利公正が欧州から絹織物数種を持ち帰り、福井の有志に見せて新しい絹織物の考案を依頼したことから、羽二重製織の技術研究が始まりました。
そもそも一年中いつでも昼と夜の乾湿の差が少ない福井地方は、絹織物製織にはまさに最高の条件を備えた土地でした。
明治20年頃には技術の基礎も確立し、福井県産絹織物の輸出量は、大正初年から半ばにかけては日本全国の60%を占めるに至り、名実ともに世界一の生産地となったのです。
 
■「羽二重」とは

生糸は、蚕(かいこ)の作った繭を水で煮て紡ぐことでつくります。このため、生糸には撚りがありません。これを経糸(たていと)と緯糸(よこいと)にし、交互に規則的に製織したのが絹織物です。
このうち、筬(オサ:たて糸の位置を整え、よこ糸を織りこむのに用いる織機の部品)の一羽(ひとは)に縦糸を2本を通した織物を「羽二重」とよびます。普通は平織りですが、綾羽二重や絞り羽二重などもあります。
 


■「羽二重」といえば福井

 福井の羽二重は、よこ糸を水で濡らして織っていく「ぬれよこ」と呼ばれる製法を用いるため、地合がひきしまり、こしがあって丈夫になります。撚りがないので引っかかりもなく、極上のすべすべとした手触り感を生みます。そして、なめらかな美しい光沢があり、風合いが羽のようにふわっと柔らかいという特徴があります。
福井羽二重は、胴裏、羽裏、比翼地、長襦袢、石持として全国に流通しています。また最近では、雑貨用や美術工芸用、又衣料の分野でも健康衣料として大活躍しています。
絹の良さは「羽二重に始まり羽二重に終わる」と言われますが、福井でつくられる羽二重は最上の絹織物と評価されているのです。
 
■福井羽二重の生まれるまで

 昭和11年10月に福井県織物同業組合創立50周年記念に刊行された織物50年史によれば、福井県絹織物の由来は、慶長6年松平秀康が越前入りから発展を辿った。当時は既に光絹、玉紬などの絹織物が出来ていたが、一向に発展のきざしがみれず、秀康はそれを憂慮され、玉紬を北荘紬に改めると共に、公儀献上品にも扱われてからその名声は全国に拡がり、また、品質も改良されたのである。
 明治4年に旧藩士由利公正は政府の要職にあり、政府の命により欧米諸国へ海外視察に赴き、その際に欧米品の羽二重見本を数種類持ち帰り、勤業吏の酒井功がそれをみせてもらい、それに刺激されて奉書紬の品質改善に力を注ぎ、一方では羽二重模紡品の試織研究に剰り出した。
 しかし、当時日本絹業の先進地は京都市であった。明治5年11月に京都市は、織物伝習生として佐倉常七、井上伊平、吉田忠七の三名を仏国里昂へ派遣、バッタン機の使用方法を習得し、翌年12月にフランス式ジャガードとバッタン機を購入して帰国し、さらに京都博覧会へ出品し、全国の機業家に実演公開し、非常な反響を呼び起こした。同8年1月には京都二条河原町に織物工場を創設し、そこで織機使用法の公開伝授を始めた。これを酒井功がきき込み、敦賀当局へ本県からも京都へ伝習生の派遣方を進言した。県当局もこれを承認し、伝習生に橋本多仲、細井順子の二名を県費生として京都へ派遣することになった。ここで県勤業課長伊藤真は“製織法も大切だが染色法を知らぬと織物が完成品にならない”と染色法の伝習生をも派遣を要請したので、酒井功はこれに同意し、村野文次郎を京都府染色伝習所へ入所せしめ、西洋染色加工技術の研究に当った。これが本県における染色加工業の発達の端諸となったようである。
 要するに本県における輸出絹織物工業の発達は既に明治10年頃に羽二重時代出現が予測されていた。といえども羽二重工業の勃興は明治20以降に属する。即ち当時は桐生、足利地方では羽二重を製織し、海外へ輸出していたが、偶々福井県粟田部の製糸業者坪田孫助氏は生糸売込みのため横浜に赴いた際に、羽二重の輸出貿易が好況で先進地の桐生、足利でも注文に応じきれない、外商辺りは新しい産地を捜しているという情報を握って帰り、福井当業者三宅丞四郎、山口喜平、竹内常吉、竹谷彦平氏らに報告し、羽二重製織に将来性のあることを説いた。
 それと相前後して、同じく粟田部の絹業者小林清作氏は外商から羽二重の注文をうけ、福井市毛矢町の職工会社に依頼したところ、職工会社は羽二重製織法の技術を知らないということで、急遽羽二重伝習生を関東に派遣運動が起り、村野文次郎氏が織物50年史では関東へ赴き交渉したとなっているが、三代目の森山芳平翁の話しとは多少相違あるが、森山翁の話しを参照していただくことにして、高力直寛氏の福井行きの条件は紋織りの研究に、海外へ視察させるという二人の間に取り決めが出来ていたようである。当時、森山機業場には日本中から北は盛岡、南は鹿児島から織物の製織法を見習うために3、40人はいた。森山工場では随分邪魔になったようであるが、森山翁は嫌な顔もせず、志願者は誰かれとなく無条で受け入れていた。その伝習生からはビタ一文の謝礼もとらず、逆に不貧な見習生には援助の手を差しのべるなど、義侠心に富み慈愛心も深く、国土的な風格をもっておられた人格者であった。高力氏が福井へ出向くのに、福井からは旅費をとらぬことを森山翁の備志録にハッキリ書いてあり、これは何よりの生き証拠といえるだろう。
福井県輸出絹織物工業協同組合
財団法人福井県シルク振興協会
昭和57年4月1日発行
「福井羽二重の生まれるまで」より
 
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